勉強・読書メモ

最近読んだ本について記録したりする場所です

今月読んだ本(2022年5月)

 

メモ

 気づけば今年も折り返しに差し掛かっており、時間の流れの速さに驚くばかり。いよいよもって、計画を立てて読書しないと、読むことができない本も多くなるのではないかとそんなことを考えています。

 あとPCが旅立ちました。タイミングが悪い。

 

司馬遼太郎項羽と劉邦 上・中・下』新潮文庫

 高校の国語の教科書でおなじみの項羽と劉邦である。もし変わっていなければ、『鴻門之会』を読んだことがあるのではなかろうか(この漢文がいつから採用されたのか分からないので、自分と同年代の人に限られるのかもしれない)。

 本書は上・中・下と三巻に分けて、秦の始皇帝の死から項羽と劉邦が台頭し、後に天下争いへを経て、最終的に烏江で項羽が漢軍に討たれるところまでが描かれる(紀元前200年代の中国)。とはいえ司馬遼太郎は、歴史家としての目線から、登場する人物の簡単なその後を節々で描いている。

 私自身が項羽と劉邦を知ったのは高校の教科書であったが、正直にいうと、当時は関心を殆ど持たなかった。理由は今となってはあまり思い出せない。三国志や中国の思想には興味関心を持っていたので、五経四書の類いは目を通していた(孔子論語くらいしか分かった気になれなかったけれども)。そのため、読んでいても不思議はないものの、司馬遼太郎では坂の上の雲梟の城などの一部を読んで、それ以上は触れていなかった。

 私の感じ方ではあるが、吉川英治三国志を舞台情景を華々しく勢いのある文体で描いているとすると、司馬遼太郎項羽と劉邦は歴史の分析を行いながら書かれている感を抱いた。前者が講談を聞いているようであるとすれば、後者は講話を聴いているよう。あくまでも印象問題。

 面白いと思った点は主に三点ある。

 

 ⑴呪いなどを現実主義的に描く

 ⑵飢えた民に食を与えるという英雄の像

 ⑶当時の思考論理に対する分析

 

 ⑴については、要するに神秘的な要素を現実の要素に戻して原因を分析する。そのため、天が項羽を滅ぼそうとしているのだ、といったような物語内の項羽の心情は、司馬遼太郎の目線では項羽の性格が招いた結果であると結論されているように見える。同様に、ゴロツキであった劉邦がどうして沛公などと呼ばれるようになり漢を興せたのかという点についても、劉邦の性格や、劉邦の配下の手回しによるとして述べられる。そのため、「天運」が項羽を滅ぼしたのではなく、どこまでも武人肌過ぎたが故に項羽は負け、その逆にどこまでもゴロツキのような劉邦であったからこそ項羽に勝てたということになる。

 ⑵は一に関連する。司馬遼太郎は、再三再四、民に食を与えるのが当時の英雄の条件であると考えている。この要素を認識できていなかったことが、項羽の主たる敗因とすら言いたげであるようにすら見えた。歴史的背景から言えば、秦の時代から徴税によって食が奪われ、飢えることから反乱の機運が盛り上がり、反乱に立ち上がった人々は食を求めて彼らの腹を満たすことができる者を推戴するという。これが司馬遼太郎の論理であるように見えた(もちろん、もう少し複雑なのかもしれないが、少なくともそのように見えた)。この点については、思えば後の三国時代の幕開けである黄巾の乱においても似たような現象が生じていたのかもしれないと思うと、説得的な見方である。ただそうであるとすると、武勇で兵の崇敬を集めた項羽というものが、この英雄像から見れば異質な存在であるように思われた。

 ⑶については、司馬遼太郎は当時の倫理思想や思考の論理を描くのを好んでいるように見えた。そのため、主要な登場人物のではなく謀臣や、果てには⑵で触れた流民の思考の分析をも含めて描きだしている。印象的なのは、劉邦が彭城から敗走の際に、自身の息子を何度も車から捨てた場面で、司馬遼太郎はこの行為が当時の論理(倫理)では特別おかしくはないと述べる(現代の視点だと、とんでもないと驚くことではあるが)。これは、孝という倫理が原始的に重要であるとされた当時において(儒家道徳はまだ国民道徳ではなかった)、子は親が生きながえるためにはむしろ自身から進んで車を軽くすべき存在であるという理屈が受け入れられていたということらしい。流石に誇張だろうと思わざるを得ないが、とはいえ司馬遼太郎自身はこのあたりをさらりと描いている。逆に、劉邦の部下の夏侯嬰が、子が捨てられるたびに拾ってはまた乗せるということを繰り返すことの方が不自然であるようにすら読めた(そういう意図は恐らくない)。

 以上三点が、個人的に面白いと感じた点であった。

 上記とは異なり、これは自身の無知に起因することではあるが、私は劉邦という存在を三国志劉備のような存在と考えていた(なんでそんな風に考えていたのかは分からない)。そのため、どこが温雅な徳のある人物と思っていたものの、まったく違ったということにまず驚いた。家の手伝いをしない遊び人で、盗人のようなことまでするあまりのゴロツキっぷりに、こんな人物がよく天下を取ったなというのが抱いた感想であった。

今月読んだ本(2022年4月)

 

メモ

 先月に引き続きあまり読めていない。

 資格関係の本は省略。個別に細かくメモを作っているため。

 今年の初めに立てた計画が、既にえらく狂っているので一度見直しをしたいと考えている。途中で途絶えている集合論については、現在上江洲忠弘の『集合論・入門』を読んでいる。

 論理学の勉強はあまり進んでいない。ただ、最近とある資格試験の勉強で論理を使うことになった際、論理和標準形が意外と役に立った。また、ブール代数が直観的に分かるようになったのも思わぬ収穫であった。とはいえ、考えてみれば具体例は手元にそろっていたので、深く考えていなかったというのが正しいのかもしれない。そのためか、最近はブール代数を改めて学びたいと感じている。竹内外史の現代集合論入門か前原昭二の数理論理学序説を再読しようかと悩み中。

 

エリック・ホッファー(柄谷行人訳)『現代という時代の気質』ちくま学芸文庫

 アメリカの社会哲学者ホッファーの社会批評集。

 全体としては、196o年代のアメリカが主を対象とした批評であるものの、ホッファーの考察の立脚点は一貫して肉体労働者の観点である。ホッファー自身が港湾労働者として働き続けていたということもあってか、他に読んだ社会批評集と比較すると非常に地に足のついた視点からの批評であった。

 収録されているのは以下の六編

 

  1. 未成年の時代
  2. オートメーション、余暇、大衆
  3. 黒人変革
  4. 現代をどう名づけるか
  5. 自然の回復
  6. 現在についての考察

 

 個人的に面白かった点は、先にも述べた地に足がついた観点からの考察で、ホッファーは大衆という概念に対してさほどネガティブなイメージを付して語らない。アメリカを史上初の大衆の国として理解している点などからも、それは窺える。

 むしろ、知識人に対する批判的な言明が目立つ。ただ、ホッファーのいう知識人は学者一般をさすのではなく、もう少し広義的な概念である。自身が教育された人間であるという自負心を有する人を意味する概念として用いられているためである。つまり、知識人である要件は、自身がそうであるという感情にある。

 知識人に対する批判は、現在についての考察が最も露悪的に描かれている。そこでの知識人は、自身を権力の座に置こうと必死になっており、結果として傑出した指導者を生み出そうとしない大衆的社会(ホッファーはこれをアメリカと考える)を非難するという。また、結果として権力の座をせしめたとしても、知識人は結果として腐敗するという結末を辿ると彼は語る(pp.122-124ではそれを三つの原因に分析している)。

 上記の批評が事実であるかどうかはさておき、しばしば批判的に語られる大衆を肯定的に捉え直しつつ、逆に知識人に対する批判、分析を行う点で興味深い一冊であった。

 

・テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦、三原弟平訳)『プリズメン』ちくま学芸文庫

 ベンヤミンと同じくフランクフルト学派第一世代のアドルノによる文化批判論集である。正直に言うと全然読めている気がしない。先に啓蒙の弁証法をきちんと精読した方が良いのではないかと考えている。

 収録は以下の十二編。

 

  1. 文化批判と社会
  2. 知識社会学の意識
  3. 「没落」後のシュペングラー
  4. ヴェブレンの文化攻撃
  5. オルダス・ハックスリーユートピア
  6. 時間のない流行
  7. バッハをその愛好者たちから守る
  8. アルノルト・シェーンベルク一八七四‐一九五一年
  9. ヴァレリー プルースト 美術館
  10. ゲオルゲとホーフマンスタール
  11. ベンヤミンの特徴を描く
  12. カフカおぼえ書き

 

 タイトルからも分かる通り文学から音楽まで考察の観点に含まれている。彼自身、作曲家でもあったらしい。

 面白い点、というよりは唯一頭に残っているのは、しばしば西洋の没落論を論じる傾向にあった当時の風土の中で、そうした批評者たちを批判的に分析している点であった。また、社会批評家の人々が、ある種の地位を得るようになったのは、印刷を通じたメディアの発達にあるという。最近のメディア批判は読んだことがないので分からないが、似たような考察があれば、その雛型のような分析かもしれない。

 個人的にはアドルノ自身が、当時どういう場面に置かれていたのかが気になるところである。ヤスパースアレントはえらく酷評されているらしい(ナチへの加担疑惑や、それに対する弁明、アレントとしてはベンヤミンを助けなかったことなど)。

 本書読んだ際に気になったのは、ハクスリーのすばらしい新世界、ホルクハイマー全般、ヴェブレンの有閑階級の理論の三冊であった。

 啓蒙の弁証法などを読んでから、改めて目を通してみようと思う。

 

西田幾多郎『思索と体験』岩波文庫

 善の研究後のエッセイや小論が収録された一冊。

 収録は以下十六編。

 

  1. 認識論における純論理派の主張について
  2. 法則
  3. 論理の理解と数理の理解
  4. 自然科学と歴史学
  5. 高橋(里美)文学士の拙著『善の研究』に対する批評に答う
  6. ベルグソンの哲学的方法論
  7. ベルグソンの純粋持続
  8. 現代の哲学
  9. コーヘンの純粋意識
  10. ロッツェの形而上学
  11. 認識論者としてのアンリ・ポアンカレ
  12. トルストイについて
  13. 愚禿親鸞
  14. 小泉八雲伝』の序
  15. 『国文学史講和』の序
  16. 物質と記憶』の序文

 

 面白いのは全体としてベルグソンが多い点。正直にいうと、善の研究、特に純粋経験の考えはウィリアム・ジェイムズの影響が濃い一冊として理解していたが、西田自身はベルグソンの考えに近いと考えている節がある(フランス哲学についての感想、というエッセイでは京都に来た初めの頃はベルグソンに共鳴していたと述べている)。

 本書に収録された最初の四編は、主としてドイツ西南学派のリッケルトヴィンデルバントの考えを示しつつ考察を加えるという形式である。5については題の通り、自著の書評に対する応答である。6以降から目立つのは、フランス系の哲学について触れている点。

 前半で気になったのは、4の自然科学と歴史学である。ここでの主たる主張は、恐らく純粋経験を一般的に統一するのが自然科学で、特殊的に統一するのが歴史学であるということであると思うのだが、それがよく分からない。前者はさておき、後者については朧気にしか掴めなかった。

 私たちの日常的な理解に従えば、科学は再現可能な事象を扱う。その意味で、事情に対する特殊、つまり、それはたった一回きりの特別な事象であるという考え方はしない。この考え方は、割かし分かった気になれる。ただ、歴史学は、時間空間的にある点で生じた特殊な事象の羅列を作成するのではないと西田は述べる。歴史学は、個性を有した事象を扱うのだというが、これがまた分からない。個性がそもそも何なのかは分からないが、個性を有する事象というのは、価値的見方に基づき、合目的的に成し遂げられた事柄であるらしい。単純化すると、目的があって為されたことが個性を有しているとのこと。何となく分からないもでないが、とはいえ個人が合目的的に物事を成し遂げることと、歴史学が扱う規模の事象が有する合目的性とは何ぞや、という点が気になった。加えて、こうした価値的見方に立脚することで、客観的真理が定まるというようなことを述べている点も気になる。もう少し精読が必要。

 その他、フランス哲学に対するシンパシーが顕著である点は面白かった。西田本人は純粋経験の考えとベルグソンの純粋持続に似たものを感じているらしい記述が5にあったが、思えばベルグソンもジェイムズを評価していたと記憶しているので、西田がベルグソンに触れているのはあたり前なのかもしれない。随筆なども考慮すると、素材としてドイツ哲学を使いつつも、実際に親近感を感じていたのはフランス哲学なのだろうかと愚考する。後に身体を自身の考察に含めて考えなければならないと考えている節もあり、西田がメルロ・ポンティを読んだらどう考えていたのだろうかという点も気になる。

 続・思索と体験もその内読む予定。

 

以上

今月読んだ本(2022年3月)

 

メモ

 今月はあまり読めなかった。

 今後減っていったら自分の人生おしまいである。

 

・柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評家』岩波新書

 ヴァルター・ベンヤミンの思想を年代順に追ったもの。恐らくは解説だと思うが、ほとんど理解できなかった。そのため、色々と判断保留するほかない。

 自分がこの本を再び手にとる必要があるかどうかは、ベンヤミンのテキストに自分で当たって考える外ないと思わせることが目的だったのなら、その意図通りになっているとは思う(ベンヤミンセレクション読んだ方がまだ何読んでるか分かるかもしれないと思った)。

 

戸田山和久『「科学的思考」のレッスン』NHK出版新書

 科学的に思考することについて、全体として二部に分かれて展開される。第一部はメタ科学的な解説で、科学の営みにおける思考法や概念などが紹介・解説される。また、それらの概念の理解のもと、科学的思考を実践する練習問題も付されている(もちろん解答例も)。第二部は、第一部を総合した上での応用編と言った感じで、執筆当時問題となっていた原発問題を例に、市民の持つ(あるいは、持つべき)科学リテラシーについて触れられている。

 第一部、第二部ともに大変読みやすく、また構成も(相変わらず)丁寧であった。全然関係ないが、普段の戸田山さんの文量に比べるとかなり抑えめなのでは?と感じた。

 個人的に面白いのは、安心と安全の定義に対する見直しを提示するところであった。市民の捉え方についても、かなり伝統的な定義だと感じたが(対話する市民)、何よりも安心を主観的な概念として位置づけるのではなく、客観的な議論をする場においても考慮するべき事柄だと指摘する点が面白かった(pp.253-260)。

 

飯田泰之、SYNODOS編『もうダマされないための「科学」講義』光文社新書

 先に触れた戸田山さんの本で紹介されていた一冊。伊勢田哲治さんの論文があるということで興味を思った。全体的に面白く読めた。内容としては、トランスサイエンスがメインにありつつ、執筆当時(2011年前後)の影響が色濃く見えたり見えなかったり。ただ、編者たちが述べているように、それは恐らく元から想定されていた内容の流れは維持されていると感じた。

 収録されている論文は以下。

 

 ・1章 科学と科学ではないもの 菊池誠  

 ・2章 科学の拡大と科学哲学の使い道 伊勢田哲治 

 ・3章 報道はどのように科学をゆがめるのか 松永和紀

 ・4章 3・11以降の科学技術コミュニケーションの課題

 ・付録 放射性物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込む人たち 片瀬久美子

 

 面白かったのは第二章と第四章。伊勢田さんのに関しては、モード1とモード2についての区別の導入が面白かった。第四章は専門家と市民の間のコミュニケーション問題を扱う点が、自分の問題意識と合致していて面白かった。

 付録については、特に3.11以降に出回ったデマの事例紹介などがのっていて、当時まだインターネットを触っていたなかった身としては、色々と驚くようなデマがのっていて、それが逆に面白かった。

 

 

今月読んだ本(2022年2月)

 

メモ

 今月は先月ほど読むことができなかった。

 とはいえ、セネカも「多数の著作家のあいだを当てもなく渡り歩くよりは、少数の著作家に身を委ねるほうがはるかにましなのである」(「心の平静について」第九章)と言っているのだから、数を気にするよりかは読んだ本がきっちり自身の力になっているかを考えた方が良い。

 以上言い訳。

 

伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』講談社学術文庫

 先史時代のギリシアからマケドニアによるギリシア支配までを扱った一冊。全部で四章構成で、第一章では線文字Bの解読による研究の進展に関連した話が、第二章ではポリス誕生が扱われ、第三章では民主制の展開が、第四章ではポリスの絶頂期から凋落への流れが述べられている。

 プラトンアリストテレスを通じて、何となく把握していたギリシアに関する知識をより深めるのに役立った。個人的に面白かったのは、ポリス成立以後のアテネとスパルタの社会の共通点や相違点である。この時代のギリシア社会においては、疑わしき者は罰せよの風潮が非常に強いと感じた。スパルタにおいては反逆への不安のためか能力のあるヘロットを殺害する慣わしがあり、アテネにおいてはオストラキスモスによって投票によって選ばれた者の国外追放などがある。非常に表層的かもしれないが、この共通点は面白いなと感じた。

 上記以外であれば、ペイシストラトスのようなクーデターによって僭主政権を成立させながら、国内の整備をキチンとするというのも以外であった。独裁的性格を有した政治ではあったらしいが、後世の評判が存外よいというのが個人的に面白い。中国の古代史を見ていたりすると、どうしてもクーデターのような方法で国家を乗っ取ると、大抵ろくなことをしていないように見えるためそう感じた(最近、司馬の項羽と劉邦をペラペラ捲っていたからそう感じるだけかもしれない)。

 また読み直したいと思いつつ、1976年に書かれたものがベースになっているようなので、最新像も気になるところ。

 

佐々木毅『よみがえる古代思想 「哲学と政治」講義Ⅰ』講談社学術文庫

 先に見た本に続いて読んだもの。古代ギリシア・ローマ世界を中心として政治を扱っている。全五章構成。第一章では、ソクラテス以前からソクラテスにかけて、ギリシアの政治が論じられる。この時代におけるギリシアに特徴的なのは、ヒュブリスという悪徳に対する厳しい姿勢と、ノモスの遵守という考えである。また、基本的にギリシア世界における名声は、政治と結びついており、自由人である条件はまさに政治を行うということによるのである。しかし、ソクラテスはこうした価値観を「魂への配慮」という形で内面へと向けさせる。それは、政治世界において名誉や栄誉などへの執着ではなく、己自身の善き生に気を配れという形へとなる。第二章では、こうした師匠のソクラテスを踏襲しつつ、独自の政治観を提示したプラトンについて語られる。プラトンの政治論の特徴は、国家を三つの部分に分けて考えた点と哲人王による国の統治という考えであるように思われる。第三章では、プラトンの弟子のアリストテレスが扱われる。アリストテレスプラトンとは異なり、ポリスとは距離を取った視点から考察を行っているという点が指摘される。第四章では、ヘレニズム時代における諸派が扱われ、第五章ではローマが扱われる。

 大きな流れとしては、政治との結びついていた時期から、段々と政治に対して距離を取る過程が描かれることとなる。ちなみに本書の続編では、今度は距離を置いていた哲学と政治が再び結びつくという方向過程で述べられている。

 古代における政治思想を見るのに、読みやすく大変便利だと感じた。

 

フレーゲ(藤村龍雄訳)『概念記法』(『フレーゲ著作集1』所収)勁草書房

 述語論理が初めて提示された本。フレーゲの金字塔その1。現在の論理学の教科書からすると、えらい複雑な記号法が採用されている。色々と面白いところがある一冊。まず初めに本書の動機が語られ、次に記号法の提示。そして公理の提示を行い、いくつかの導出を見た後、遺伝に関連して記号法が拡張されてさらに定理が証明されるという構成である(と思われる)。

 現在標準的である古典論理の体系との分かりやすい相違点は二つあるように思う。第一に、命題とそれに対する判断が記号法において採用されていること。つまり、真偽を問う段になると判断線(「|—A」の左の縦線。水平線は内容線と呼ぶらしい)が必要となる。こうした判断という何事かを表すものを、教科書的な古典論理は採用していない(ラッセルは信念の対象となっている命題についてのみ真偽が問題になるというような立場を1912年頃とっていたような気がするが、これはフレーゲの影響だったのかもしれない?)。第二に、存在量化を用いないということ。もちろん、全称量化と存在量化の関係を考えれば、別に一方だけで足りるわけだが、個人的には存在量化も一緒に導入されていると思っていたため意外だった。見落としている可能性は否めない。

 そのほかに重要であるのは、命題の分析を主語述語という図式から、項と関数へと移し替えた点などがある。

 読み直す際に忘れてそうなこと。記号法を日常言語で表現する時、フレーゲは命題を否定的に表現している。例えば、フレーゲはB→Aという条件文を表すとき、「Bが真となり、Aが偽となるということはない」と表現する(したはず)。言葉を節約できる表現なのだろうと思う。自分がよく見るのは「Bが偽か、Aが真である」というパラフレーズ

 面白いわりに短い一冊であった。まだまだ理解し尽くせない箇所が多々あるため、再読する予定。とりあえず、かなり端折って読んだ遺伝の箇所は精読が必須。

 

M.ハイデッガー、E.フッサール、M.ホルクハイマー(清水多吉・手川誠士郎編訳)『30年代の危機と哲学』平凡社

 ハイデガーフッサール、ホルクハイマーの論文(講演?)が収録されたもの。なぜかM.ハイデッガーほかと表紙には載っているが、一番ページ数が長いのはフッサールである。

 収録されているのは以下の四本(タイトル末の括弧は発表された年)。

 

 ①フッサール「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」(1935)

 ②ハイデガー「ドイツ的大学の自己主張」(1933)

       「なぜわれらは田舎に留まるか?」(1934)

 ③ホルクハイマー「社会の危機と科学の危機」(1932)

 

 いずれもドイツの人である。これらの発表された年代からも分かる通り、30年代というのは1930年代のことを指す。

 ①の論文は、合理主義の直面している挫折について解決を探るものである。②は、ハイデガーが大学総長についた際の講演と、一年後退任した際の講演である。③はホルクハイマーが当時の潮流における社会と科学の関係を箇条書きで述べたものである。それぞれが一年おきに世に現われているのが面白い。

 読んでいて連関が見えやすかったのは、①と③である。フッサールは現代の合理主義の危機は客観主義と自然主義の二つによって生じていると主張し、哲学的精神によるヨーロッパの再生を主張している(p.94)。これに対して、ホルクハイマーはフッサールの立場に批判的に見える(年代で考えるのなら、フッサールがホルクハイマーに批判的であるとも理解できる)。合理的科学的思考に現代の危機の責任を負わせることを隠蔽だとホルクハイマーは述べているからである(p.143)。とはいえ、ではホルクハイマーが科学の擁護者かと言えば、そうとも言えない。科学の抱える二重の矛盾の指摘がそれであろう(pp.150-152)

 当時の精神的状況を考えれば、第一次大戦後の西洋没落論が盛んな時期であったため、上二つのものは非常に読みやすく、問題意識も掴みやすかった。逆にハイデガーは相変わらず分かりづらい。今回の場合は、言葉の問題というよりもハイデガーが当時どのように振舞おうと思って上二つの講演をしたのかという意図の点。最近(といっても、既に数年前かもしれないが)、ハイデガーユダヤ問題について言及しているテクストが公刊されていたような気がするので、そこら辺を読むとより明確にナチスへの関与の理由が分かるかもしれない。

 先の二人の考えが互いに連関するのが見えやすいのに比して、ハイデガーのものは少し浮いているように感じた。ハイデガーの就任演説については、彼の奉仕義務と呼ぶところのものがプラトンの国家論が土台であろうという点意外は読流してしまった。続く退任後の講演も、彼の思惑が砕かれて隠れて生きよという生活に価値を見出したようにも見えた。ただ、彼の述べていることからすれば、この評は正しくない。彼はあくまでも、哲学する上で都会よりも田舎にその思索の源泉を見つけたというだけなのかもしれない。存在と時間くらいしか自分は知らないので、その後の彼がどのような思索を展開したかを今後知る必要がある。

 

田中美知太郎『古代哲学史講談社学術文庫

 日本の古代哲学といったらこの人、の一人である田中美知太郎の古代哲学史。古代哲学史と題されているが、古代哲学に関して田中が書いた論文を四本、それとヘラクレイトスの断片が収録されている。内容は三部に分けられる。収録されているのは以下の通り。

 

 Ⅰ

  ・西洋古代哲学史

  ・古代アトム論の成立

 Ⅱ

  ・古代哲学一

  ・古代哲学二 

 Ⅲ

  ・ヘラクレイトスの言葉

 

 Ⅱは通読した方が良い気もするが、基本的にはどれも独立して読めるので、気になるものから読んで大丈夫であると感じた。また、Ⅱについては、今後研究する人に向けての入門という感があり、二次文献や依拠すべきテキストなどについて非常に詳しく述べられている。今の古代哲学の研究がどうなっているか、生憎と事情に疎いので、これはちょっと調べたい。

 個人的に面白かったのは、古代アトム論の成立。内容を理解し損ねている可能性はあるが大雑把にまとめると、デモクリトスらに見られる古代アトム論の成立には、パルメニデスなどのエレア派の論理と、タレス以来の自然哲学が契機となっているものであった。こうした結論を引き出すのだから、当然内容としてはパルメニデスについても詳しく述べられており、依然よりも随分パルメニデスについては見通しがよくなった。ただ、同時に、パルメニデスがそこまで抽象的に存在と非存在を考えることができていたのかという点に疑問が生じた。この点については、パルメニデスの著作を読んでみるほかない。

 

 以上。

今月読んだ本(2022年1月)

 

読んだ本メモ

 以下読んだ順にメモ。

 赤攝也の『集合論入門』については個別にメモをしているので除く。

ジッド(三ツ堀広一郎訳)『法王庁の抜け穴』光文社古典新訳文庫

 いつか受けた文学関係の講義で気になっていた一冊。ジッドと言えば『狭き門』や『背徳者』、『田園交響楽』という程度のにわか知識しかなかったため、硬派な作家だと思っていた(あるいは自分が読んだ新潮文庫のジッドの翻訳が、そういう訳し方だったのかもしれない)。そのため、本作はあらすじからして、こういうのも書いてたのかと印象に残っていた。

 内容については、ローマ法王フリーメーソンによって幽閉されているという詐欺事件を中心に、様々な人間が奇妙な形で交差していくというお話。物語はアンティムというフリーメーソンに所属している男の回心から始まり、その義弟にあたるジュリウスが父親の隠し子(愛人の子?)の調査へ移る。そして、詐欺事件の真相を探るためにローマへと向かうジュリウスの義弟・アメデにスポットが当てられ、次に詐欺グループの百足組へ。最後はジュリウスの腹違いの弟と分かったラフカディオについて、彼が突然殺人を犯し、ジュリウスにそれを告げて物語は終幕する。

 こうした物語の中心にいるのは、ジュリウス・ド・バラリウルとラフカディオであると感じた。とある小説家の言い方に倣えばスモールワールドな人間関係である。詐欺事件を企てているのは、ラフカディオのかつての知人であるプロトスであり、ラフカディオが終盤に、動機なく殺害するアメデ・フリッソワールはジュリウスの義弟である(ラフカディオ自身はジュリウスの腹違いの弟にあたる(と思われる)ので、アメデは親戚)。様々なと形容したものの、こうした点を思うと、ほとんどバラリウル家の数奇なめぐりあわせだなぁなどと読後思っていた。

 上記とは無関係ながらちょっと気になったのは、「モテる」などの砕けた表現。自分は生憎とフランス語はまったく分からないので、いつか確かめてみたいと思っているけれど、原文だとどういう風に表現しているのだろうか。悪いというわけではなく、単純に気になった。以前集英社かどこかのファウストを読んだ時も、一寸法師という表現を見て、お?となったりした。日本向けに分かりやすく訳したと思われるが、本来は何と書いていたのだろうか。本書の訳は非常に読みやすく、普段は船をこいでいる電車の中で、楽しく読めた一冊。

 個人的なことではあるが、文学系は光文社の訳が今のところ一番読みやすいと感じている。

 

伊豫谷登士翁『グローバリゼーション 移動から現代を読み解く』ちくま新書

 移動に焦点をあてて現代社会を、というよりは移民に焦点を当てているように感じた。内容としては三部構成で、第一部はグローバリゼーションについて、第二部で移動について、第三部では「場所の未来」と題して多文化共生とコミュニティについて論じられている。

 移民研究はあまり詳しくないのだが、移民を国益の観点から捉えようとしていた云々というのは気になる点であった。ニュースなどへの人の反応を見ていると、まさに上記のスケールで移民を測るというのが当然の向きがあったからである(場合によっては、自身もしているかもしれない)。

 

ジグムント・バウマン(奥井智之訳)『コミュニティ』ちくま学芸文庫

 『リキッド・モダニティ』の著者による、コミュニティに関する社会学的考察の本。副題は「安全と自由の戦場」(原著の副題は「安全でない世界で安全を求める(Seeking Safety in an Insecure World)」?)。

 本書の意図は「安心と自由との間の論争」という手の打ちようがない論争に対して呈された解決策を、(実行に移された場合を念頭において)入念に検討するということであろう(本書,p.13)。本書は現代におけるコミュニティがどうなっているかを(あるいはどうなるかを)考察している。

 かなり気になる点が多い本であるため、またその内読み直すことになると思う。とりあえず一読目で、特に面白いと感じたのは第一章「タンタロスの苦悩」と第七章「多文化主義へ」であった。前者はコミュニティの社会学的な(あるいはバウマン的な)考えを知ることができた点が面白く、後者はフレッド・コンスタンという多文化主義への面白い指摘をする人がいたのを知ることができた点。

 また、先に触れた伊豫谷のものと重なるところがあると感じた。両者に共通しているように思われたのは、コミュニティを作為的に求めることが失敗に終わるであろうという予測の点。バウマンはそれをタンタロスやアダムとイヴの話になぞらえて述べているのであるが、このコミュニティが求められた時点で須らく失敗するという考えは、社会学では常識に属するのであろうか。門外漢なので分からないが、興味ある内容。また、コミュニティに対する定義がサンデルあたりと重なる点があるのかも少々気になる。今後の課題とする。

 あと、ローティの言及が非常に多いのが意外だった。プラグマティストとしてしか考えていなかったためである。思えば、伊豫谷の本においてもメイヤスーがでてきたのも少々驚いた。

 

篠原資明『ベルクソン <あいだ>の哲学の視点から』岩波新書

 人はどこから来て、何であり、そしてどこへ行くのか、という問いを巡ってベルクソンの観点から考える一冊(のように思われる)。本書の構成は上記の問いに基づいて三つに分けられており、第一章では人はどこから来たのか、第二章では人は何であるのか、第三章ではどこへ行くのか、という形で論じられている。各々の答えは、恐らく①今かつての間から人は来て、②人はホモ・ファーベルであり、③神仏へと行く、ということになっているように思われる。

 後期(どういう区別がベルクソン研究で為されているのか分からないが)の思想を主としているように感じた(あるいは晩年?)。持続や記憶と言った馴染みのある言葉は登場しているものの、全体としては『創造的進化』と『二源泉』、『精神のエネルギー』を中心としているように感じた。ベルクソンの解説を求めているのなら、恐らくは別の本にあたった方がよいと思われる程の癖の強さ(『自由と時間(あるいは『試論』)』や『物質と記憶』に関する記述はあまりなかったように思う)。

 思想家と宗教的衝動の関係が気になるという、本書とは殆ど関係のない関心を抱いた。

 

野上志学『デイヴィッド・ルイスの哲学 なぜ世界は複数存在するのか』青土社

 本書はタイトルの通り、ルイスの可能世界論とその応用が扱われている。全体としては五章立てで、第一章でまずルイスの可能世界論を概観し、以後はそれを用いた応用が中心となる。第二章では反事実条件文が、第三章では因果が、第四章ではフィクションが、第五章では知識が扱われる。全体として分かりやすく、読みやすい一冊であった。キーワード解説や読書案内も付されており、初学者にとって大変親切な本である。本書を頼りに、もう少し色々なものを読んでみようと思う。

 以下は疑問などなど(論理式の記号は若干変えている。例えば否定~を¬にしたり)

 〇今後、自分がルイスと付き合っていく時のための稚拙な疑問。

 ・可能世界を実在として認めるという形而上学的立場にコミットする必要性がいまいちピンとこない(語り方として保持するのは分かる)。

 ・ルイスの可能世界論における類似性概念があまりハッキリしない。可能世界を現実と同様に具体的であるとするのはよいが、可能世界と現実をどのように比較するのかが正直分からなかった(可能世界の「近さ」を類似性を用いて定義しているので、ここが腑に落ちないともやっとしたものが残る。類似性基準自体は定式化されている)。

 ・フィクション分析が、ほとんど日常的な語りを形式化したようにしか見えないため、わざわざ可能世界論を使って分析したうま味が分からない。これの応用はどう生きるのか。

 

 〇本筋とは逸れた疑問&何か?

 ・メレオロジー的和の定義は分かりやすいのだが、「メレオロジー」って何?という疑問が残った。随分前に『現代存在論講義』や『現代形而上学入門』を読んだ時も似た疑問を持った気がする。メレオロジー的とは…?

 ・知識について扱われている懐疑論の論証において、自身の状態を知識に含めているが、そもそもこの点は問題にならないのか。ソクラテス無知の知もそうではあるが、自身の状態を知っている、というのはどういうことなのか(ソクラテス無知の知については、最近「不知の自覚」としているものもある。納富の『ソクラテスの弁明』参照)。

 ・肯定分と否定分の間に非対称性があるように感じた(上手く言語化できていない)。そのため、懐疑論の推論が、(¬Y∧(X→Y))→¬Xという妥当なものであるとしても、なんだかもやっとする。また、ムーア主義に対する論点先取という点についても同じくもやっと。

 ・哲学的な議論で夢の議論となると、毎度明晰夢の話が出されるが、正直一度もそういう夢を見たことがないのでまったくピンとこない。哲学者はそんなに現実と夢を区別できないような夢を見るのだろうか?なので、正直、第五章冒頭で、「夢を見ていないと私はしっているとはいえない¬K(¬D)」と否定の前提を導出しているのがかなり不思議だった。原理的な区別の困難さ自体は明瞭ではないものの、何となく分かる。実際、現実であるという証拠をだせといって、相手をツネっても認めてもらえないなら、自分に打つ手は今のところない。

 ・上記で懐疑論の推論を形式化したが、知識の状態を表す知識演算子K(X)について、X内の命題構造は無視出来るのだろうか?(書いておいてなんだが、無視できるような気がしてる。読みながらメモを取った時、第五章冒頭の懐疑論の議論が込み入っていたので、自分も上記の関数を勝手に導入した。すぐ後に定式化されていたので恐らく問題ない気もする)

 

大西琢朗『論理学』昭和堂

 論理学の初学者向けの一冊。形式的にきっちりと定義や証明を積み上げていくという教科書よりは、丁寧に論理学の色々な領域を案内してくれる一冊。著者の言い方に従えば「ツアーガイド」である。実際問題、初学者向けかつこれだけの領域をキッチリと積み上げて解説するのなら、このページ数では足りないだろう。戸田山和久さんの論理学の本だって、とんでもなくどでかいが中心はあくまでも古典論理である。大変丁寧な上に独習者でも本格的に学べる論理学の本であるのは事実。ただし、とにかくデカく分厚いの両攻め。論理学を独学するため二回ほど読んだが、読んだ気に未だになれない。二回しか読んでないの?と言われそう。

 本書は古典論理を見た後に、非古典論理に手を広げて説明される(ただ命題論理と併せて様相命題論理は導入される)。ただ、古典論理の説明については、教科書的なSemantics、Syntaxに区別して行うようなものではない(触れてはいる)。論理式の形成規則を見た後、その反例の構成が可能かどうかで妥当性の判定を行うというものであった。非古典論理については、個人的によく見かける直観主義論理や、具体的にどういったものなのかを知らなかった多値論理(戸田山さんの本で見たはずなのに…)、本当に初見の関連性論理なるものも含まれている。コラム程度ではあるが、ルイスの本でちょっと触れた知識演算子を扱う論理(これを「認識論理」というらしい)についても言及されている。要するに、一通りは観光案内的に説明されている。

 直観主義については、数理論理学の本で扱われているのをよく見たり、技術的な側面(どう計算するか)については若干触れたものの、直観主義の導入する値が多値論理とどう異なるのかあまり考えたことがなかった。というよりも、真理値を三つ持つ多値論理の一種くらいに思っていた。しかし、本書では直観主義論理が三値論理ではない証明が紹介されていたりする点も個人的に面白く感じた(もしかしたらこれまで読んだ本に書いてたのかもしれない)。また、コンピュータ科学との関連でわりと面白い領域らしい、ということも書いてあって意外だった(個人的には数学基礎論の一立場くらいの認識だったためかもしれない)。

 文献案内もあり、至れり尽くせりの一冊である。割とライトに読め、これ程広範な領域を訪ねることができるのは論理学を学んでいく上でよいガイドとなるなと思った。

 また、著者のYouTubeチャンネルもある。自分みたいな独習者にはかなりありがたい。

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 論理学関係の本は次に小野寛晰『情報科学における論理』を読む予定。

【勉強メモ】赤攝也『集合論入門』その2

進捗

 一通り読み終わったものの、終盤は殆どチンプンカンプンである。

 とりあえず証明に切片が重要であるとうことは、その多用具合から何となく察した。

 原因は段階的にキチンと読まなかったからであろう。大まかを知ろうとして失敗した。

 

 上記をメモした後、流石に理解がまったくできていなかったので、第三編をゆっくりと読み返し中。

 第三編の本丸である順序数の手前までやってきたので、以下はここまでの振り返り。

 

メモ

 第三編は①順序集合→②整列集合→③順序数→④整列可能定理の順に進む(セクション番号は、本文ではローマ数字)。

 内容相互の関係としては、整列集合を含めた順序を与えられた集合一般について扱われるのが順序集合、整列集合は順序集合の内、任意の部分集合が最小限(min)を持つ集合として定義される。そのため、①で順序を持つ集合のあらましを見た後、②~④は整列集合を扱っている(と考えられる)。

 ①では、順序集合について、同型、最初の元・最後の元・間にある元、順序型が定義される。順序集合についての定理は三つ証明される。とはいえ、定理1と定理2については実質同じであると考えられる。定理1では、

 ⑴順序集合の恒等関数は同型対応であるということ、順序集合AとBについて、

 ⑵AからBへの同型対応があればBからAへの逆関数も同型対応であること、

 ⑶AからBへの同型対応とBからCへの同型対応によってAからCへの同型対応が言える

ということの三つが証明されている。定理3は、順序集合A、Bが同型対応である時、順序を保つという定理であると理解できる(つまり、最初の元・最後の元・間にある元のいずれも、同型対応φによって保たれる)。

 ②では、整列集合について、切片が定義される。そして、定理が二つ証明される。とはいえ、本節は主として整列集合の性質が証明されている。とにかく数が多い。定理1は整列集合Aの部分集合Bへの同型対応φは、φ(a)=aあるいはφ(a)>aであることを成立する。これを証明した後、定理1から得られることとしてφ(a)=aまたはφ(a)<aが証明されて、φ(a)=aであることが証明される(なんでここ分けたのだろう?)。定理2は整列集合AとBについて、

 ⑴AとBは同型である

 ⑵AはBのある切片と同型である

 ⑶BはAのある切片と同型である

ということについて証明され、さらにこれらは同時に一つしか成り立たないことが証明される。この定理2では定理1から得られる事柄が活躍しているが、読んでいた際には、定理1から得られることとしての(C)整列集合はそのいかなる部分集合のいかなる切片とも同型になりえない、を用いればそれで済んでしまうのでは?などと考えていた。これは同時に一つしか成り立たない、ということの証明には使えるが、⑴~⑶のそれぞれの集合がなされなければならないという点を完全に忘れていたため。

 ただ気になるのは、本文では(C)について証明の中で言及されていなかった点である。証明の中での切片と同型にならないという下りは、(C)とは少々異なるのだろうか?もう一度注意して読み直す必要あり。

 

 以上、順序数の手前までのまとめ。数学の言葉遣いが未だに身についていないため、怪しい箇所があるが今後改善。

 順序数については、整列集合の順序型として定義され、序数概念の拡張となっているという説明までは目を通した。一読目よりは、多少道が見えている気がする。

【勉強メモ】赤攝也『集合論入門』その1

〇進捗

 予定通り読み進めている途中です。

 とりあえず読み進めている段階なので進む速度は速いものの、理解できていない箇所は多々あり。一週読んだら、すぐに二週目入っていこうと思います。

 

〇メモ

 本書の本編は三部。プラスで付録があり、Zorn補題はここで扱われている。

 第一部は集合の代数、第二部は濃度、第三部は順序数。Zorn補題と同値の選択公理、整列可能定理は第三部で扱われている(現状は、第一と第二をとりあえず読み終えたあたり)。

 ・第一部については有限集合を中心としてその演算等々が扱われる。ここは高校数学の延長っぽい感じが続く。

 ・第二部からが本題で、無限集合について扱われる。無限集合については、有限集合のように元の数で比較などができないので、濃度という概念が導入されて、濃度の等しさを基本として理解していく方針になっている(はず)。

 恐らく重要なのが、ℵゼロとして導入される可付番の濃度と、ℵとして導入される連続体の濃度(あと関数の濃度fがある)。基本的にはこれらℵゼロあるいはℵを基準として、この濃度と対等かどうかが問題になっているように思われる。ベルンシュタインの定理は、また今度頭の整理を兼ねてメモ。

 自分は連続体の話はあまり知らないのですが、連続体の問題というのはどうやらℵゼロ<a<ℵにおいて、このような濃度aがあるのかが問題らしい。ちなみに解決不可能とのこと(そういう濃度は存在しない?)。一般連続体の問題の場合は、無限集合Aとそのべき集合の濃度の間に、他の濃度があるかという問題で、こちらも同じく解決不可能であるらしい。

 集合論の教科書を読んでいて、いつもふと出てくる添字集合がいまいちピンとこない。集合の元などを数列a,a1,a2,...,anで表現する時に、そもそも数列にラベルする番号の集合にも濃度を考慮している、くらいの大雑把な理解でよいのでしょうか。読み直す際に注意してみよう。

 

とりえずのメモ。