勉強・読書メモ

最近読んだ本について記録したりする場所です

今月読んだ本(2022年1月)

 

読んだ本メモ

 以下読んだ順にメモ。

 赤攝也の『集合論入門』については個別にメモをしているので除く。

ジッド(三ツ堀広一郎訳)『法王庁の抜け穴』光文社古典新訳文庫

 いつか受けた文学関係の講義で気になっていた一冊。ジッドと言えば『狭き門』や『背徳者』、『田園交響楽』という程度のにわか知識しかなかったため、硬派な作家だと思っていた(あるいは自分が読んだ新潮文庫のジッドの翻訳が、そういう訳し方だったのかもしれない)。そのため、本作はあらすじからして、こういうのも書いてたのかと印象に残っていた。

 内容については、ローマ法王フリーメーソンによって幽閉されているという詐欺事件を中心に、様々な人間が奇妙な形で交差していくというお話。物語はアンティムというフリーメーソンに所属している男の回心から始まり、その義弟にあたるジュリウスが父親の隠し子(愛人の子?)の調査へ移る。そして、詐欺事件の真相を探るためにローマへと向かうジュリウスの義弟・アメデにスポットが当てられ、次に詐欺グループの百足組へ。最後はジュリウスの腹違いの弟と分かったラフカディオについて、彼が突然殺人を犯し、ジュリウスにそれを告げて物語は終幕する。

 こうした物語の中心にいるのは、ジュリウス・ド・バラリウルとラフカディオであると感じた。とある小説家の言い方に倣えばスモールワールドな人間関係である。詐欺事件を企てているのは、ラフカディオのかつての知人であるプロトスであり、ラフカディオが終盤に、動機なく殺害するアメデ・フリッソワールはジュリウスの義弟である(ラフカディオ自身はジュリウスの腹違いの弟にあたる(と思われる)ので、アメデは親戚)。様々なと形容したものの、こうした点を思うと、ほとんどバラリウル家の数奇なめぐりあわせだなぁなどと読後思っていた。

 上記とは無関係ながらちょっと気になったのは、「モテる」などの砕けた表現。自分は生憎とフランス語はまったく分からないので、いつか確かめてみたいと思っているけれど、原文だとどういう風に表現しているのだろうか。悪いというわけではなく、単純に気になった。以前集英社かどこかのファウストを読んだ時も、一寸法師という表現を見て、お?となったりした。日本向けに分かりやすく訳したと思われるが、本来は何と書いていたのだろうか。本書の訳は非常に読みやすく、普段は船をこいでいる電車の中で、楽しく読めた一冊。

 個人的なことではあるが、文学系は光文社の訳が今のところ一番読みやすいと感じている。

 

伊豫谷登士翁『グローバリゼーション 移動から現代を読み解く』ちくま新書

 移動に焦点をあてて現代社会を、というよりは移民に焦点を当てているように感じた。内容としては三部構成で、第一部はグローバリゼーションについて、第二部で移動について、第三部では「場所の未来」と題して多文化共生とコミュニティについて論じられている。

 移民研究はあまり詳しくないのだが、移民を国益の観点から捉えようとしていた云々というのは気になる点であった。ニュースなどへの人の反応を見ていると、まさに上記のスケールで移民を測るというのが当然の向きがあったからである(場合によっては、自身もしているかもしれない)。

 

ジグムント・バウマン(奥井智之訳)『コミュニティ』ちくま学芸文庫

 『リキッド・モダニティ』の著者による、コミュニティに関する社会学的考察の本。副題は「安全と自由の戦場」(原著の副題は「安全でない世界で安全を求める(Seeking Safety in an Insecure World)」?)。

 本書の意図は「安心と自由との間の論争」という手の打ちようがない論争に対して呈された解決策を、(実行に移された場合を念頭において)入念に検討するということであろう(本書,p.13)。本書は現代におけるコミュニティがどうなっているかを(あるいはどうなるかを)考察している。

 かなり気になる点が多い本であるため、またその内読み直すことになると思う。とりあえず一読目で、特に面白いと感じたのは第一章「タンタロスの苦悩」と第七章「多文化主義へ」であった。前者はコミュニティの社会学的な(あるいはバウマン的な)考えを知ることができた点が面白く、後者はフレッド・コンスタンという多文化主義への面白い指摘をする人がいたのを知ることができた点。

 また、先に触れた伊豫谷のものと重なるところがあると感じた。両者に共通しているように思われたのは、コミュニティを作為的に求めることが失敗に終わるであろうという予測の点。バウマンはそれをタンタロスやアダムとイヴの話になぞらえて述べているのであるが、このコミュニティが求められた時点で須らく失敗するという考えは、社会学では常識に属するのであろうか。門外漢なので分からないが、興味ある内容。また、コミュニティに対する定義がサンデルあたりと重なる点があるのかも少々気になる。今後の課題とする。

 あと、ローティの言及が非常に多いのが意外だった。プラグマティストとしてしか考えていなかったためである。思えば、伊豫谷の本においてもメイヤスーがでてきたのも少々驚いた。

 

篠原資明『ベルクソン <あいだ>の哲学の視点から』岩波新書

 人はどこから来て、何であり、そしてどこへ行くのか、という問いを巡ってベルクソンの観点から考える一冊(のように思われる)。本書の構成は上記の問いに基づいて三つに分けられており、第一章では人はどこから来たのか、第二章では人は何であるのか、第三章ではどこへ行くのか、という形で論じられている。各々の答えは、恐らく①今かつての間から人は来て、②人はホモ・ファーベルであり、③神仏へと行く、ということになっているように思われる。

 後期(どういう区別がベルクソン研究で為されているのか分からないが)の思想を主としているように感じた(あるいは晩年?)。持続や記憶と言った馴染みのある言葉は登場しているものの、全体としては『創造的進化』と『二源泉』、『精神のエネルギー』を中心としているように感じた。ベルクソンの解説を求めているのなら、恐らくは別の本にあたった方がよいと思われる程の癖の強さ(『自由と時間(あるいは『試論』)』や『物質と記憶』に関する記述はあまりなかったように思う)。

 思想家と宗教的衝動の関係が気になるという、本書とは殆ど関係のない関心を抱いた。

 

野上志学『デイヴィッド・ルイスの哲学 なぜ世界は複数存在するのか』青土社

 本書はタイトルの通り、ルイスの可能世界論とその応用が扱われている。全体としては五章立てで、第一章でまずルイスの可能世界論を概観し、以後はそれを用いた応用が中心となる。第二章では反事実条件文が、第三章では因果が、第四章ではフィクションが、第五章では知識が扱われる。全体として分かりやすく、読みやすい一冊であった。キーワード解説や読書案内も付されており、初学者にとって大変親切な本である。本書を頼りに、もう少し色々なものを読んでみようと思う。

 以下は疑問などなど(論理式の記号は若干変えている。例えば否定~を¬にしたり)

 〇今後、自分がルイスと付き合っていく時のための稚拙な疑問。

 ・可能世界を実在として認めるという形而上学的立場にコミットする必要性がいまいちピンとこない(語り方として保持するのは分かる)。

 ・ルイスの可能世界論における類似性概念があまりハッキリしない。可能世界を現実と同様に具体的であるとするのはよいが、可能世界と現実をどのように比較するのかが正直分からなかった(可能世界の「近さ」を類似性を用いて定義しているので、ここが腑に落ちないともやっとしたものが残る。類似性基準自体は定式化されている)。

 ・フィクション分析が、ほとんど日常的な語りを形式化したようにしか見えないため、わざわざ可能世界論を使って分析したうま味が分からない。これの応用はどう生きるのか。

 

 〇本筋とは逸れた疑問&何か?

 ・メレオロジー的和の定義は分かりやすいのだが、「メレオロジー」って何?という疑問が残った。随分前に『現代存在論講義』や『現代形而上学入門』を読んだ時も似た疑問を持った気がする。メレオロジー的とは…?

 ・知識について扱われている懐疑論の論証において、自身の状態を知識に含めているが、そもそもこの点は問題にならないのか。ソクラテス無知の知もそうではあるが、自身の状態を知っている、というのはどういうことなのか(ソクラテス無知の知については、最近「不知の自覚」としているものもある。納富の『ソクラテスの弁明』参照)。

 ・肯定分と否定分の間に非対称性があるように感じた(上手く言語化できていない)。そのため、懐疑論の推論が、(¬Y∧(X→Y))→¬Xという妥当なものであるとしても、なんだかもやっとする。また、ムーア主義に対する論点先取という点についても同じくもやっと。

 ・哲学的な議論で夢の議論となると、毎度明晰夢の話が出されるが、正直一度もそういう夢を見たことがないのでまったくピンとこない。哲学者はそんなに現実と夢を区別できないような夢を見るのだろうか?なので、正直、第五章冒頭で、「夢を見ていないと私はしっているとはいえない¬K(¬D)」と否定の前提を導出しているのがかなり不思議だった。原理的な区別の困難さ自体は明瞭ではないものの、何となく分かる。実際、現実であるという証拠をだせといって、相手をツネっても認めてもらえないなら、自分に打つ手は今のところない。

 ・上記で懐疑論の推論を形式化したが、知識の状態を表す知識演算子K(X)について、X内の命題構造は無視出来るのだろうか?(書いておいてなんだが、無視できるような気がしてる。読みながらメモを取った時、第五章冒頭の懐疑論の議論が込み入っていたので、自分も上記の関数を勝手に導入した。すぐ後に定式化されていたので恐らく問題ない気もする)

 

大西琢朗『論理学』昭和堂

 論理学の初学者向けの一冊。形式的にきっちりと定義や証明を積み上げていくという教科書よりは、丁寧に論理学の色々な領域を案内してくれる一冊。著者の言い方に従えば「ツアーガイド」である。実際問題、初学者向けかつこれだけの領域をキッチリと積み上げて解説するのなら、このページ数では足りないだろう。戸田山和久さんの論理学の本だって、とんでもなくどでかいが中心はあくまでも古典論理である。大変丁寧な上に独習者でも本格的に学べる論理学の本であるのは事実。ただし、とにかくデカく分厚いの両攻め。論理学を独学するため二回ほど読んだが、読んだ気に未だになれない。二回しか読んでないの?と言われそう。

 本書は古典論理を見た後に、非古典論理に手を広げて説明される(ただ命題論理と併せて様相命題論理は導入される)。ただ、古典論理の説明については、教科書的なSemantics、Syntaxに区別して行うようなものではない(触れてはいる)。論理式の形成規則を見た後、その反例の構成が可能かどうかで妥当性の判定を行うというものであった。非古典論理については、個人的によく見かける直観主義論理や、具体的にどういったものなのかを知らなかった多値論理(戸田山さんの本で見たはずなのに…)、本当に初見の関連性論理なるものも含まれている。コラム程度ではあるが、ルイスの本でちょっと触れた知識演算子を扱う論理(これを「認識論理」というらしい)についても言及されている。要するに、一通りは観光案内的に説明されている。

 直観主義については、数理論理学の本で扱われているのをよく見たり、技術的な側面(どう計算するか)については若干触れたものの、直観主義の導入する値が多値論理とどう異なるのかあまり考えたことがなかった。というよりも、真理値を三つ持つ多値論理の一種くらいに思っていた。しかし、本書では直観主義論理が三値論理ではない証明が紹介されていたりする点も個人的に面白く感じた(もしかしたらこれまで読んだ本に書いてたのかもしれない)。また、コンピュータ科学との関連でわりと面白い領域らしい、ということも書いてあって意外だった(個人的には数学基礎論の一立場くらいの認識だったためかもしれない)。

 文献案内もあり、至れり尽くせりの一冊である。割とライトに読め、これ程広範な領域を訪ねることができるのは論理学を学んでいく上でよいガイドとなるなと思った。

 また、著者のYouTubeチャンネルもある。自分みたいな独習者にはかなりありがたい。

www.youtube.com

 論理学関係の本は次に小野寛晰『情報科学における論理』を読む予定。