今月読んだ本(2022年4月)
メモ
先月に引き続きあまり読めていない。
資格関係の本は省略。個別に細かくメモを作っているため。
今年の初めに立てた計画が、既にえらく狂っているので一度見直しをしたいと考えている。途中で途絶えている集合論については、現在上江洲忠弘の『集合論・入門』を読んでいる。
論理学の勉強はあまり進んでいない。ただ、最近とある資格試験の勉強で論理を使うことになった際、論理和標準形が意外と役に立った。また、ブール代数が直観的に分かるようになったのも思わぬ収穫であった。とはいえ、考えてみれば具体例は手元にそろっていたので、深く考えていなかったというのが正しいのかもしれない。そのためか、最近はブール代数を改めて学びたいと感じている。竹内外史の現代集合論入門か前原昭二の数理論理学序説を再読しようかと悩み中。
・エリック・ホッファー(柄谷行人訳)『現代という時代の気質』ちくま学芸文庫
アメリカの社会哲学者ホッファーの社会批評集。
全体としては、196o年代のアメリカが主を対象とした批評であるものの、ホッファーの考察の立脚点は一貫して肉体労働者の観点である。ホッファー自身が港湾労働者として働き続けていたということもあってか、他に読んだ社会批評集と比較すると非常に地に足のついた視点からの批評であった。
収録されているのは以下の六編
- 未成年の時代
- オートメーション、余暇、大衆
- 黒人変革
- 現代をどう名づけるか
- 自然の回復
- 現在についての考察
個人的に面白かった点は、先にも述べた地に足がついた観点からの考察で、ホッファーは大衆という概念に対してさほどネガティブなイメージを付して語らない。アメリカを史上初の大衆の国として理解している点などからも、それは窺える。
むしろ、知識人に対する批判的な言明が目立つ。ただ、ホッファーのいう知識人は学者一般をさすのではなく、もう少し広義的な概念である。自身が教育された人間であるという自負心を有する人を意味する概念として用いられているためである。つまり、知識人である要件は、自身がそうであるという感情にある。
知識人に対する批判は、現在についての考察が最も露悪的に描かれている。そこでの知識人は、自身を権力の座に置こうと必死になっており、結果として傑出した指導者を生み出そうとしない大衆的社会(ホッファーはこれをアメリカと考える)を非難するという。また、結果として権力の座をせしめたとしても、知識人は結果として腐敗するという結末を辿ると彼は語る(pp.122-124ではそれを三つの原因に分析している)。
上記の批評が事実であるかどうかはさておき、しばしば批判的に語られる大衆を肯定的に捉え直しつつ、逆に知識人に対する批判、分析を行う点で興味深い一冊であった。
・テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦、三原弟平訳)『プリズメン』ちくま学芸文庫
ベンヤミンと同じくフランクフルト学派第一世代のアドルノによる文化批判論集である。正直に言うと全然読めている気がしない。先に啓蒙の弁証法をきちんと精読した方が良いのではないかと考えている。
収録は以下の十二編。
- 文化批判と社会
- 知識社会学の意識
- 「没落」後のシュペングラー
- ヴェブレンの文化攻撃
- オルダス・ハックスリーとユートピア
- 時間のない流行
- バッハをその愛好者たちから守る
- アルノルト・シェーンベルク一八七四‐一九五一年
- ヴァレリー プルースト 美術館
- ゲオルゲとホーフマンスタール
- ベンヤミンの特徴を描く
- カフカおぼえ書き
タイトルからも分かる通り文学から音楽まで考察の観点に含まれている。彼自身、作曲家でもあったらしい。
面白い点、というよりは唯一頭に残っているのは、しばしば西洋の没落論を論じる傾向にあった当時の風土の中で、そうした批評者たちを批判的に分析している点であった。また、社会批評家の人々が、ある種の地位を得るようになったのは、印刷を通じたメディアの発達にあるという。最近のメディア批判は読んだことがないので分からないが、似たような考察があれば、その雛型のような分析かもしれない。
個人的にはアドルノ自身が、当時どういう場面に置かれていたのかが気になるところである。ヤスパースやアレントにはえらく酷評されているらしい(ナチへの加担疑惑や、それに対する弁明、アレントとしてはベンヤミンを助けなかったことなど)。
本書読んだ際に気になったのは、ハクスリーのすばらしい新世界、ホルクハイマー全般、ヴェブレンの有閑階級の理論の三冊であった。
啓蒙の弁証法などを読んでから、改めて目を通してみようと思う。
・西田幾多郎『思索と体験』岩波文庫
善の研究後のエッセイや小論が収録された一冊。
収録は以下十六編。
- 認識論における純論理派の主張について
- 法則
- 論理の理解と数理の理解
- 自然科学と歴史学
- 高橋(里美)文学士の拙著『善の研究』に対する批評に答う
- ベルグソンの哲学的方法論
- ベルグソンの純粋持続
- 現代の哲学
- コーヘンの純粋意識
- ロッツェの形而上学
- 認識論者としてのアンリ・ポアンカレ
- トルストイについて
- 愚禿親鸞
- 『小泉八雲伝』の序
- 『国文学史講和』の序
- 『物質と記憶』の序文
面白いのは全体としてベルグソンが多い点。正直にいうと、善の研究、特に純粋経験の考えはウィリアム・ジェイムズの影響が濃い一冊として理解していたが、西田自身はベルグソンの考えに近いと考えている節がある(フランス哲学についての感想、というエッセイでは京都に来た初めの頃はベルグソンに共鳴していたと述べている)。
本書に収録された最初の四編は、主としてドイツ西南学派のリッケルトやヴィンデルバントの考えを示しつつ考察を加えるという形式である。5については題の通り、自著の書評に対する応答である。6以降から目立つのは、フランス系の哲学について触れている点。
前半で気になったのは、4の自然科学と歴史学である。ここでの主たる主張は、恐らく純粋経験を一般的に統一するのが自然科学で、特殊的に統一するのが歴史学であるということであると思うのだが、それがよく分からない。前者はさておき、後者については朧気にしか掴めなかった。
私たちの日常的な理解に従えば、科学は再現可能な事象を扱う。その意味で、事情に対する特殊、つまり、それはたった一回きりの特別な事象であるという考え方はしない。この考え方は、割かし分かった気になれる。ただ、歴史学は、時間空間的にある点で生じた特殊な事象の羅列を作成するのではないと西田は述べる。歴史学は、個性を有した事象を扱うのだというが、これがまた分からない。個性がそもそも何なのかは分からないが、個性を有する事象というのは、価値的見方に基づき、合目的的に成し遂げられた事柄であるらしい。単純化すると、目的があって為されたことが個性を有しているとのこと。何となく分からないもでないが、とはいえ個人が合目的的に物事を成し遂げることと、歴史学が扱う規模の事象が有する合目的性とは何ぞや、という点が気になった。加えて、こうした価値的見方に立脚することで、客観的真理が定まるというようなことを述べている点も気になる。もう少し精読が必要。
その他、フランス哲学に対するシンパシーが顕著である点は面白かった。西田本人は純粋経験の考えとベルグソンの純粋持続に似たものを感じているらしい記述が5にあったが、思えばベルグソンもジェイムズを評価していたと記憶しているので、西田がベルグソンに触れているのはあたり前なのかもしれない。随筆なども考慮すると、素材としてドイツ哲学を使いつつも、実際に親近感を感じていたのはフランス哲学なのだろうかと愚考する。後に身体を自身の考察に含めて考えなければならないと考えている節もあり、西田がメルロ・ポンティを読んだらどう考えていたのだろうかという点も気になる。
続・思索と体験もその内読む予定。
以上